Art in Kochiの管理の関係でネット上を周回していたら、
BLOGを始める前の
自分の記録に遭遇。
というかこのページが有る
という事を
今日始めて知ったし
始めて自分の目で見た。
公式で公開されているじゃないか!
そうだった。
2004年の初夏のころ、
私は病み上がりで
デカイ蜻蛉を作っていた。
そして今、本山のミシシッピー
に有るくたびれきった蜻蛉は、
元気な時はこのような姿だっ
たのだった。
(作った時は、エアコンが効いてて
風雨にさらされないかるぽーと内での設置しか想定してなかった)
このJEANS FACTORY CONTEMPORARY ART AWORDのページのこの文章↓
(※2005年からCONTEMPORARYはタイトルに入っていない)
自分のサイトをコレだけ作っておきながら、我楽多内のどこにも自分で活字で残していなかった。
制作意図/アピールポイント
どんな人間であれ、その人の生まれた社会に順応することを強要され、またそうしないと生きていけない。しかし世の中の 都合はどうであれ、元々人間はそのような存在ではない。持って生まれた資質の一部を押し殺さざるをえない個々の人間はとても十全とは言えないし幸福とも言 えない。まだ何の分別もなく本能のままに生きていた頃の自分、社会化される過程で未分化なまま深層意識の奥底に幽閉されてしまった自分をどことなく探し求 める。私が創ろうと思うのはそこに一瞬でも回帰する為の装置であり、日常の中で日常の物を使うことによって生まれる非日常空間である。本当の自分という蜻 蛉(かげろう)をとらえる手段もまたこの世の尺度や様々な色眼鏡でしかあり得ない。認識した情報を脳で電気信号を使って自分を通して出すことでしか人の認 識というものは成立し得ないからだ。これらの事柄を素直に日常の物を使って再現し、鑑賞者自身が作品に参加することで(装置を操作することで)作品として 形にしたい。
なんとも複雑げな文章だが、こんな文章を書いてたらしい。
要は「人間も電気の信号で意志が有るような気がしているだけの蜻蛉(かげろう)さ」みたいな事を
前の見えにくいトンボヘルメットでもかぶって、不便を楽しみながら遊んでもらおう。という代物。
※トンボヘルメットをかぶった鑑賞者の姿は自分自身では見えにくく、トンボの目に仕込まれたカメラがその様子を
1分おきに撮影して記録しており、その撮影画像を音に変換したもの(20秒程度のランダム音)が鑑賞者のトンボヘルメットの中に流れる。>>>当時の記録はこちら
おんぷたんくさんの
面識も無いおんぷたんくさんに突然メールをし、この作品用に改良してもらいました。
今考えたらスゴい話だ...。何だか当時並みのやる気を出さないといけない気がしました。
病み上がりの焦燥感というのはスゴいもんだ。



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