「謙虚たる事は良い事だ」「意欲的に貢献する事は素晴らしい」「熱心に頑張っていて偉いね」
↑よくある私に対する勘違い。昔っからそう。
点をかせぐつもりも無いのに、いつの間にやら点取り虫。
(先生の子=真面目 という周りの見方が絶対影響している。
まず色眼鏡をかけて見ているからそう見えるのです。)
私がネット上の色んな所で地方のアートの云々を書き散らかしているのは、
そういうゴマスリ思考や点が稼ぎたいからではない。
「ここを守るため」。我楽多日報の本来の姿を取り戻す為なのです。
私="gra"ではないし、私="蛸" でもないし、それ以前に「私は元々個人で作家」なわけです。
確かに「まず常識を教えるのが教員」でしょう。
なのでそういう事もやって来ているし仕事ではやりますが、
そのまま常識にとらわれて作品を作ると新しい世界は開拓できません。
現代アートで作品を発表して来ている以上は、開拓者であり、研究者であり、
他人に理解をされない専門の世界と自分だけの時間を持っている必要があります。
(※現代アートと言うのはジャンルではなくジャンルとしてまだ確立されていないものの総称です。)
しかし、世の中とつながらずには人は存在できません。
この世に人として存在する為に普遍のものごとを確固としてとらえていなければ、
理解されていない専門の世界をどんなに追求してもその意義を伝える手段がありません。
ものごとの本質と言うのは普遍です。人間の本能と言うのは普遍です。
それはとらえようによって悪でも善でもあり、
理解されていない開拓区域はある種のタブーでもある為に普遍であっても開拓されていないのです。
作家というのは、変人ぶりたくて変人になっているわけではなく
(なんちゃっての気取り作家でなりたくてなってる輩もたくさん居て、ある程度気取ったら気が済んで活動を辞めて行きますが、
全くもって作家が偏見をもたれるタネになるだけし、本気でやってる作家サイドから見たら邪魔になるのでやめてほしいが)
その自分の開拓世界の普遍探しと日常の生活を行き来している為に
変わった人物のようになっているだけで、
変な事をしたら芸術活動をしていると思っているわけではないのです。
私はおそらくそのような人たちの中で、比較的使い分けをハッキリしている為に、
「謙虚たる事は良い事だ」「意欲的に貢献する事は素晴らしい」「熱心に頑張っていて偉いね」
などと言われるわけで、私にとってそれは世の中に認められて嬉しい事ではなく、不自由になるのです。何故なら私にだって他の作家と同じような自分の世界は必要であり、何かに認められて表舞台に引っ張りだされて振り回されるよりは、自分の作品を真剣に考える時間が必要なのです。
(だいたい、[比較的]であってただの相対関係で、一般的にみればちゃんと使い分けているわけでもないのに、冷静に考えれば私が褒められるような話ではない。むやみに持ち上げる前によく目を見開いてみていただきたい。)
その自分の時間と世界の一部が私にとってこのBLOGであり、
「ここの内容を見て私を過大評価するな」「放っておいてくれ」と言うのは
そう言う意味なのです。
初期のこのBLOGはgraのことも色々書いていました。
当時graにはサイトしかなく、細かい情報を毎日流すBLOGのような媒体が無かったからです。
いつの間にかここがgraのBLOGであるかのように周りが見に来るようになり、
ビッグネームである[シ毎 シ羊 堂]さんのイベントの時には苦情がここに書き込まれるまでになり、
周囲の認識として[私=gra]なのだということに気がつきました。私はgraである前に作家で個人
なのです。graのBLOGをココとは別に隔離して立ち上げたのはそのためです。
そうこうするうちに、私の力とは関係無く、
ここは人が集まるBLOGとして告知を頼まれるようになりました。
あたりまえですが、人が集まらないBLOGで宣伝するよりも効果があるからです。
そもそも何故ココに人が集まるかというと、私が不自由に不満を抱き
悪態をついて「こんな自分の思うようにならないBLOGはぶっ壊してしまえば良い」と思って
自ら荒らすからで、その度に想像以上に人が集まるのです。
そんなことで人を集めてどうなるんだ....
「私の作品を見て、その作品について知りたくて人が集まる」のなら喜びますが、
私の作品の事を書いている場所で、全く違う事についての苦情や異常や炎上が起きて
それをヤジ馬が喜んで集まってみにきているのです。
それを知っていて「あなたの所は集客力があるから宣伝してくれ」という発言は一体何事だ。と。
宣伝したい人間の都合だけではないか。私の個人エリアがどんどん無くなって行くのです。
私の作品ではないものについて興味を持って、人が集まって来てここの主旨が変わって行くのです。
私の意志とは関係無く。
これを「うっとおしい」「煙たい」と言わずしてなんと表現するのか。
何故それでも、この人間嫌いがやっているBLOGに人が来るのか。
「他に作家が腹の底から言いたい事をハッキリ言ってる場所が無い」し、
「展覧会情報をまとめて一望できる場所が無い」からのようです。
およそホームベースと化している個人のBLOGが荒れるのは誰だってイヤなので、
本心ではなく「よかったよ〜」「かわい〜」「こういう見た目の作品で云々」という
自分の好き嫌いや、中身の無い事だけを書き綴り、
作家の意図の部分や作品に込められたメッセージを本気で表に出そうという場所はほとんど無い。
作品現物を見てその場で話さないと(もしくは鑑賞者の頭の中だけにおさまり)
分かる人にしか分からない状況になっているのです。
それを見て、「あーそんなので良いんだ〜私にもできそー」と
「自分が作りたいものの形だけ作ったら僕も私もアーティスト」気分になっている人が
どれだけ居るだろう。
みんなして上辺だけのヘラヘラした内容を書いて、なーなーの褒めあいこをして
足の引っ張り合い。それが一体なんになるのか。
街場のアーティストと地方のアーティストの決定的な差は言語化の能力だろう。
話術として、自分の作品や自分の考えをその場で人に説明できるかどうか、
自分は何を正しいと思い何をオカシイ事と感じてどうすべきだと思うのか。
それを語る為の知識を日夜集める努力をしているか。
よく思い出して下さい。
作品を作る動機・本質は「日常的な世の中に対しての疑問と提案でありメッセージ」です。
見た目の形を作る事や、形を作れる事に対する自己満足ではありません。
それだけなら発表などしなくても自分で家で見て勝手に喜んでいれば良いのです。
ハッキリ言って私には言語化の能力がものすごく欠落している。
まず作品現物としてなるべく良いものを見たいのに、良いもの自体を探すのにものすごく時間がかかる。
地方の情報が整理されていないからだ。再々街場に行くほどの資金も無いし、
近場で良いものとよく無いものを選り分けているうちに、
必要な情報を獲得して身につける時間が無くなってしまうのだ。
そして、美術系以外の事もマルチにやらなければ作家以前に生活ができない、
「仕事だからという理由で」何をしているのか分からないムダな事で日々が潰れて行き、
美術系の事だけで仕事にできる街場とは瞬発力ではどうあっても競り負ける。
他の事をしている時間が多すぎる。
「見に行きづらいし」「見に行ってもちがったりするし」「作家が現場に居ない」
要は 見に来ている人に不親切なので何も伝わらず、仲間がすぐ見つからず状況が良くなるわけが無い。
自分が制作をして誰かに見つけてもらうという事よりも、まずやらなければいけないのは
「発信する情報の整理」であり
「作家が活動する意義を、より広く一般に理解できるようにする土壌作り」ではなかろうか。
では、今それをやるべきポジションに居る人たちは一体何をしているのか?。
何かはやっているのだが、どうにもピントが合っていない。状況は待っていても良くならない。
何故か。「彼らは実際に制作活動をしていないから本質の部分が分かってないのだ」。
それが、多くの文化団体や拠点を称する人たちに会って
話をすればするほど、行き着いた私の結論です。
結局、
「作品を作ってる人間にしか分かっていない重要な事があり、そこが手つかずになっている」のだ。
作家は自分の世界の追求や生活をする事に手一杯で、それには気付いていない。
それをやるべきポジションの人がちゃんと理解してやってくれていると思い込んでいる。
実際に話せば驚くだろう。全然向いている方向が違う。あんな状態を放置していて良いわけが無い。
作家活動をしている人間が一生すくわれない。
いつからか私は、
「作家をやりつつ、運営に関わっている人」にしかこの手の話が通じない事に気がついた。
しかもそれは地方での特有の事で、都会の同種の人は環境が恵まれている為に目的が変わるらしくまた話が通じないのだ。
[運営・文化サイドで何年も働いている近くに居る人間]に何万語話して理解させようとするよりも
他県の地方で作家をしながら運営している人と初対面で話した方がツーカーだ。
いっそ高知としてまとめて全国に発信する場所を作った方が、他県の同志が見つかるのだ。
私がArt in Kochiを直感的にはじめたのにはそれらのような原因が考えられる。
人の展覧会の宣伝をここ(我楽多)でやるのは違うのです。
私の個人エリアであるココが人の集まる場になるのは間違っている。
「より多くの人が本質に気付き伝えようとする場」がココではない場所に必要なのだ
そう言う場所が無いからココに集まって来てしまうのであればそう言う場所を作るべきだと。
誰も作ってくれないなら私が勝手に作るわいと。
もう一回最初の話に戻りましょう。
私がネット上の色んな所で地方のアートの云々を書き散らかしているのは、
そういうゴマスリ思考や点が稼ぎたいからではない。
「ここを守るため」。我楽多日報の本来の姿を取り戻す為なのです。
結局「作品を作っている人間の立場しか考えていない」「自分の場所を作りたい」のが私であり、
最終的に自分の為、自分と同じ状況の人の為なのです。
この状況下で
「謙虚たる事は良い事だ」「意欲的に貢献する事は素晴らしい」「熱心に頑張っていて偉いね」
と過大評価されることを「かゆい」と言わずしてなんと表現するのか。
褒めてるヒマがあったら、このよろしくない環境をはやく誰かどうにかして下さい。
私はすっかり万策尽きました。




検索









