作品を作ったからにはなるべく言葉や文字では説明したくない。
全部が作品からうまく伝わるのがもっとも良いのですが、
補助的に説明的なパーツや要素を作品に入れて、
文字や言葉以外の説明をどんどん足し算していくのも情報が多くなりすぎて
本来のメインのかげが薄くなって逆に霧散してしまう。
さてどうしたものかと。
私の作品は漠然と言うと「そこに居るもの」を作りたかったのですが、
なぜそれがこの形なのか、何故居るのかもしくは居ないのか、などを下手に説明すると、
説明によっては
ある意味よそ者が地域の神仏を冒涜したようなとらえられ方をしかねないわけで、
妖怪にしても精霊にしても、常にいつもそれが私の作品について回っています。
だからある種のタブーを解決する為に、言語ではなく物体にしたりすることで
咀嚼して消化しようと試みるのが制作なのかもしれない。
そうなると、もっとも伝えたいものこそ言葉では伝わらないし、言葉におさまりきらない。
風習やルールがこの世にある以上全ての人にすべてを伝えられない。
言葉で伝えきれる事なら作品を作る必要は無い。
実際、展示期間中は何も無く終わって良くても、後で問題になったりだとか、
多くの人が良しとしても、核となる人にとってだけ問題点が出てきたりとか、
ものはとりようで視点によって変わってしまうわけなのです。
かと言って、実際作品は言葉や文字ではないので(言葉や文字ですら受けとりようは様々なのに)
振れ幅はかなり大きくなり、どうとでも取れるという事はある意味「結局見てもようわからん」わけで。
音はその場で消えてしまう上に、声での説明は相手の反応にもよって常に変わってしまう。
なので、何らかの方向性を指し示す事には意味があるので、
もっとも伝えたい部分をそのまま書くのではなく、
さらに一つ大きな枠組みでの一般的な事柄の方向を文字の言葉として設置する事に。
そもそももっとも伝えたい部分は言語で表現する事が不可能なので、
だから作品を作って伝えたいのであり。
何故自分だけや家族だけに見せて終わるのではなく、展示して「発表」するのか、と言えば、
「自分がこのように感じこう表した伝えた事は他者にはどう見えて、その言葉にならないものは
他者の中では一体どのようなものとして存在しているのか」そのリアクションを待つ為で。
その作品を通しての"リアクション"は、必ずしも会話であるとは限らず、その他者の鑑賞中の様子も
すべてリアクション、だから作家は会場に居るし、会期中にネット上のレビューを探しまわったり
するのだと思う。
でも、そこで見つけた活字も声も結局は
「自から他へ、全てのイメージは如何なる表現を使い尽くしたとしても7割以上伝わらないという」
という世界のものでしかない。
すべてが完全に伝わる手段が有ったとしたらそれほど窮屈で息苦しい世界は無い。
人間は不完全だから自分という自由を持つことができるし、
伝える事で自分が存在する事を確認することができるから、伝えようとする。
そういうわけで、なんだかんだで昨日からその"方向性をある程度示す説明書き"を設置しました。
リアクションはそれによっても変化してるわけですが、
今度は他の作家さんの試みとして、昨日は会場の窓が1カ所開くことになり、照明が一カ所消え、
色々光の条件が変わったので、
今日からは私の作品も「最初の計画の中で削除した光と時間に関するプラン」を一部復活して
みる事になりました。
この"環境に反応して姿を変えて行く展覧会"の感じ、今回の私の作品は他の作家ほど流動的に環境に
適応する能力の無いものなのですが、それでも一応この展覧会のモデル概念になったマイクロポップ
みたいな感じになって来ているという事なのでしょうか。
http://www.artscape.ne.jp/artscape/blog/archives/2006/12/post_299.html
これもまた何を是とするか、その捉え方一つで次の連鎖に...。
多くの人が良しとしても、核となる人にとってだけ問題点が出てきたりとか、
ものはとりようで視点によって変わってしまうわけなのです。
かと言って、実際作品は言葉や文字ではないので(言葉や文字ですら受けとりようは様々なのに)
振れ幅はかなり大きくなり、どうとでも取れるという事はある意味「結局見てもようわからん」わけで。
音はその場で消えてしまう上に、声での説明は相手の反応にもよって常に変わってしまう。
なので、何らかの方向性を指し示す事には意味があるので、
もっとも伝えたい部分をそのまま書くのではなく、
さらに一つ大きな枠組みでの一般的な事柄の方向を文字の言葉として設置する事に。
そもそももっとも伝えたい部分は言語で表現する事が不可能なので、
だから作品を作って伝えたいのであり。
何故自分だけや家族だけに見せて終わるのではなく、展示して「発表」するのか、と言えば、
「自分がこのように感じこう表した伝えた事は他者にはどう見えて、その言葉にならないものは
他者の中では一体どのようなものとして存在しているのか」そのリアクションを待つ為で。
その作品を通しての"リアクション"は、必ずしも会話であるとは限らず、その他者の鑑賞中の様子も
すべてリアクション、だから作家は会場に居るし、会期中にネット上のレビューを探しまわったり
するのだと思う。
でも、そこで見つけた活字も声も結局は
「自から他へ、全てのイメージは如何なる表現を使い尽くしたとしても7割以上伝わらないという」
という世界のものでしかない。
すべてが完全に伝わる手段が有ったとしたらそれほど窮屈で息苦しい世界は無い。
人間は不完全だから自分という自由を持つことができるし、
伝える事で自分が存在する事を確認することができるから、伝えようとする。
そういうわけで、なんだかんだで昨日からその"方向性をある程度示す説明書き"を設置しました。
リアクションはそれによっても変化してるわけですが、
今度は他の作家さんの試みとして、昨日は会場の窓が1カ所開くことになり、照明が一カ所消え、
色々光の条件が変わったので、
今日からは私の作品も「最初の計画の中で削除した光と時間に関するプラン」を一部復活して
みる事になりました。
この"環境に反応して姿を変えて行く展覧会"の感じ、今回の私の作品は他の作家ほど流動的に環境に
適応する能力の無いものなのですが、それでも一応この展覧会のモデル概念になったマイクロポップ
みたいな感じになって来ているという事なのでしょうか。
http://www.artscape.ne.jp/artscape/blog/archives/2006/12/post_299.html
これもまた何を是とするか、その捉え方一つで次の連鎖に...。




検索










